4K・8K放送の録画禁止について

「4K」「8K」など高精細な放送をめぐる議論が、放送局とテレビ・録画機メーカーとの間で紛糾している。
議論の場となっているのは放送局やテレビ・録画機メーカーなどで作る「次世代放送推進フォーラム」という、放送技術仕様を検討する団体である。
放送局側は4K・8K放送の録画禁止を求めており、録画機器を売りたい録画機メーカー側と対立している。

結論から言えば、録画の禁止はユーザーのテレビ離れへのトドメの一撃となるであろう。

録画が禁止されると、見たい番組があれば放送時間にテレビの前で待ち構えいなければならない。
録画によるテレビのタイムシフト視聴が一般化した今日、これでは不便どころか、多くの人はテレビ番組を観れなくなる可能性がある。

ここではデシタル放送開始以降、テレビ番組の録画や複製の制限が、いかにユーザーの利便性を損ねてきたかを振り返り、録画や複製の制限による、テレビ離れへの影響について考えてみたいと思います。

コピーワンス規制の開始
デジタル放送が始まる少し前から、放送局側は録画や複製に制限を求めるようになってきた。
そしてデジタル放送が始まった時、録画には「コピーワンス」という制限が加えられていた。
録画機に録った番組は、コピー元が消去されてしまう「移動」(ムーブ)しか出来なくなった。

その当時僕が使っていた録画機は、ハードディスクに録画したハイビジョン番組を、その画質のまま「移動」する事が出来ないDVDレコーダーであった。
従ってその録画機のハードディスクに録画してあるハイビジョン番組を観る手段は、その録画機を使うしかない。その録画機が壊れてしまえば、録画した番組も、ハイそれまでであります。

ダビング10
ユーザーのコピーワンスへの猛反発を受け、「ダビング10」という規制緩和が提示された。
これにより若干利便性は向上したが、コピーワンスのメディアが10枚出来るだけで、孫コピーは出来ないし、対応機種の新規購入が必要だったり、ユーザー目線に立つと似たり寄ったりの不便さであった。

そして今、4K・8K放送ではさらに厳しい制限を加えようとしている。

テレビ局員側の事情
このようにテレビ局側が執拗に録画や複製の制限を求めるのはなぜだろうか。
テレビ局側は、ハイビジョンや4Kなどの技術的な側面(質の高い海賊版が出回る)や、番組のパッケージ商品販売への影響を上げています。
しかし本質的にはユーザーのテレビへの接し方が変化してからであると、僕は感じています。

録画機の普及と高機能化が進むにつれ、テレビ視聴のタイムシフトが進み、放送時にテレビの前に拘束しておく事が困難になって来ている。
この現象は、放送局の主な収入源である広告を見てもらう機会が減少した事を意味する。

テレビ局側は録画禁止により、放送時間にユーザーをテレビの前に縛り付けておきたいのだ。
娯楽がテレビ位しかない時代ならまだしも、テレビ以外にも魅力的な娯楽やメディアが溢れている今日では通用しない論理である。

視聴者側の事情
いまどき、放送時間に合わせて生活出来る人は限られている。
もっと言えは、見ようと思ってない広告を見ている時間的余裕は無い。
僕の場合、たとえ放送時に時間を取れるとしても、観たい番組はほとんど録画する。 少し時間をずらして、広告をスキップして観るためにである。

テレビ番組の文化的側面
これら録画や複製の制限に関しては、

放送局・・・広告を見せたい
テレビ・録画機メーカー・・・機器を買い換えさせたい

と言った商売上の視点や、著作権上の視点で語られる事が多い。 しかし、テレビ番組を作品としてやメディア文化として見る視線が欠けていると感じています。

複製芸術(文化)としてのテレビ番組
放送される番組に録画や複製の制限を加える事は、テレビ番組が複製芸術(文化)である以上筋違いであり、冒頭で述べたとおり、テレビ離れへのトドメの一撃となってしまうだろう。

決まった時間に、決まった場所に出向いて楽しむ演劇や演奏会と違って、テレビの番組は、映画やレコード音楽などと同じく、量的に複製されたもの(内容が同じもの)です。

演劇や演奏会のライブ中継も、決まった時間に放送されているだけで、居ながらにして鑑賞出来る。さらに録画をすれば、ほとんど等質のものが何回でも鑑賞する事が出来る。

演劇や演奏会など、1回ごとに内容が違うものと、テレビ視聴との違い

演劇や演奏会も同じ演目を同時期に複数回演じられる事が多いが、毎回同じ内容にする事は不可能である。
同じ演目の演劇を数日間通して観た事のある人なら分かると思うが、同じ役者やスタッフによる同じ演目でも、毎回印象が違う事が多々ある。
特に、昼の公演と夜の公演のように客層が違う場合は顕著である。
このように、観客の反応が即座に演者にフィードバックされることこそが、演劇や演奏会の醍醐味である。

更に言えば、同じ日時の公演でも、観ている位置(席)ごとに、観ているものは違ってくる。
役者の化粧の臭いが届く程舞台に近い席や、歌舞伎役者の六方の振動が伝わる花道ぎわと、舞台全体を見渡せる最後列では、おのずと印象は変わってくるものだ。

演劇や演奏会などは、そこにしかなく、かつここにしか無いという、礼拝的、あるいは祭礼的とも言える芸術体験が重要な特性となっている。
世紀末の芸術論者ワルター・ベンヤミンは著書「複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)」で、このような「そこにしかなく、かつここにしか無いという体験」を「アウラ」と名付け、写真や映画など複製芸術には、その「アウラ」が消失していると指摘した。

複製芸術(文化)の本質的特性と功績
写真や映画、レコード、テレビ番組など産業革命以降に発生した「複製芸術(文化)は、それまで決まった時間に、決まった場所まで行かなければ体験で出来なかった芸術や文化を、より多くの人たちに解放してきた。
それだけではなく、映画やレコード音楽と言った新たな芸術表現をも産み出してきた。
今や映画やレコード音楽が、演劇や演奏会の単なる記録と認識している人はいない。
このように複製芸術(文化)の最も重要な特性は、「複製」される事により、より多くの人が、より身近に経験出来るという点である。

言うまでもなく、テレビもその例外では無い。

この「より身近に」という事が、特に現代を生きる人たちにとって、極めて重要である。 「より身近に」という欲望がいかに抗し難いかは、スマートフォンの爆発的な普及を見れば明らかである。

この「より身近に」という欲望を録画禁止により規制する事は、テレビとっては自殺行為となるだろう。

このような視点で見ると、テレビ番組の録画や複製の制限が、デジタル化やハイビジョン化、4Kとといった技術的な進歩を契機に議論されて来たのは皮肉であり、残念でなりません。

黄昏期のテレビジョン
最近僕のまわりでは、テレビを持たない人が増えてきている。
僕自身、テレビを観る機会はめっぽう減ってきている。 言うまでもなく、面白く感じる番組が減って来ているからである。
広告の質も落ちてきていると感じています。 昔は、食事時に大人用紙おむつの広告を入れるような事は無かったように思う。
前項では「見るつもりのない広告を見る時間的余裕はない」と述べたが、一方で積極的に見たい思うほど優れた広告があるのも、また事実である。

モバイルを含むWebの世界では、検索連動型広告やターゲティング広告と言った、極めて効果的な手法が一般化してきている。広告媒体としてのテレビの地位は相対的に下がっているのは、容易に想像出来る。

テレビ制作の原資を広告収入だけに限れば、放送局側の状況は非常に厳しいと言わざるを得ない。
しかし、だからと言って視聴者が居なくなってしまえば元も子もないと僕は言いたい。

テレビへの思い
僕に関して言えば、テレビに対する期待は決して衰えてはいない。 毎朝新聞のラテ欄は必ずチェックしている。

テレビ業界には4K、8Kと言った技術的な向上よりも、より魅力的な番組や広告を作成し、それらをより多くの人に、より手軽に届ける事にもっと注力してほしいと思います。

テレビジョンって、本当はもっと凄いと思っています。

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