遺され村の美術展

滋賀県の国道367号沿にある「限界集落」葛川細川で「遺され村の美術展」を観てきました。

葛川細川は安曇川上流部の山あいに位置し、私が釣りで良く訪れている村です。
鯖街道沿いのかつては栄えた村ですが、現在は過疎が進んでおり、廃屋や荒れた農地が点在している村です。

この村のそこかしこに、創作物がひっそりと展示されています。

ここにその一部を紹介します。
作家さん(敬称略)の紹介は、リンク先をご覧ください。
(2019.04.10現在、リンク切れです)

康浩原

ここの位置の衛生写真を、ほぼ等倍で

柳哲也

八太栄里

立石啓子

Nana
泉大津障害児者親の会+アート工房みずのみば

中野亘

アンソロポロジカルアートプロジェクト

堀尾貞治

このように創作物の形態は実に様々ですが、そのほとんどが「この地に在ること」を前提として造られています。
従って美術館や画廊などの「器」で行われる「展示会」とは根本的に異なる美術展であり、作品たちでありました。

水野浩世

上の文珠菩薩は、廃屋となっていた古民家に展示されている作品です。
このイベントが終れば、長崎の七面山妙光寺に奉納されるとの事
妙光寺では、こことはまた違った光を放つことでしょう。

 

「展示の唯一性」と言う視点

複製技術が進んだ今日においては、芸術作品は複製される事を前提に創作される事が多い。
様々なグラフィックアーツ、写真、映画、音楽(CD、配信)しかり・・・

ドイツの哲学者ワルター・ベンヤミンはその著書「複製技術時代の芸術」で、絵画などの「オリジナル芸術」には「今、ここにしかない」という「アウラ」が宿っているが、写真や映画などの「複製芸術」には「アウラ」が消失していると指摘した。
写真は焼き増しが出来るし、映画は同じ内容のものを各地の映画館で、繰り返し観る事が出来る。

今日でも絵画や劇場で観る演劇、演奏会には「アウラ」は色濃く残っています。

昔絵画は、それが「展示」されている場所に行かないと見る事が出来なかった。
さらに時代を遡ると、壁画や仏像はそこに在る事を前提として創造されてきた。

その昔は絵画も、その在る場所との繋がりがもっと強かったのではないだろうか・・・

「展示」という行為は「今,ここにしかない」という1回性をなんとか克服しようとする手段として発生したのではないだろうか・・・

村のそこかしこに在る作品を観て廻り、そんな想いが浮かんできた美術展でした。

【追記】
「作品のある風景」を切り取って、Portfolio風にまとめてみましたので、ぜひ覗いてみて下さい。
「遺され村の美術展」記憶のインデックス

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