初音ミクがくれたもの

初音ミクに関しては、バーチャルアイドルとしての視点で論じらる事が多い。

もちろん、この音声合成ソフトウェアに「初音ミク」というキャラクター設定を行い、ユーザーの二次制作を奨励していくという試みは、高く評価されるべきだと思う。

ここでは視点を変えて「初音ミク」を初めとした「ボーカロイド」の出現を「複製芸術」—映画やレコード音楽のような、等質のものが幾つも存在する芸術—の視点で考えてみたいと思う。

結論を先に言うと複製芸術の視点から見た場合、「初音ミク」をはじめとした「ボーカロイドの出現」は、「レコード音楽の出現」、「テクノポップの出現」に続く、大きな出来事と捉える事が出来る。と僕は感じている。
「ボーカリストを自分一人でプロデュースする」という夢のような環境を普及させた功績は、あまりに大きい。
以下、レコード音楽の成立から遡って考察しみたい。

1.「レコード音楽の出現」

レコードやCD、今日ではダウンロードしてPCやiPodで聴く音楽は、繰り返し何度も同じ音楽を聴く事が出来る。
今となっては至極当たり前の事であるが、「同じものを何度も聞く」事が可能となったのは、音楽の長い歴史上で見ると極々最近の事である。レコードという科学的発明以前は、自動ピアノやオルゴールを除いては不可能な行為であった。
レコードは当初「演奏を忠実に記録する」という目的で制作されていた。
この段階は、自動ピアノやオルゴールの延長であると言って良い。

しかし、レコード制作技術が進化するに伴い、単なる演奏の記録ではなくレコードに刻まれた音そのものが、オリジナルの演奏とは別次元の価値を持つようになってきた。
つまり、レコード音楽が生の演奏会では不可能な芸術経験を人々に与えるものとなった。
「演奏会」と「レコード音楽」との関係は「演劇」と「映画」との関係と等質のものとなり、「レコード音楽」という新たな芸術か誕生した。
ちなみにこの様な新たな価値創出は、「レコードは原音を忠実に再現すべき」という幻想に捕らわれがちであったクラッシック音楽の分野より、ポピュラー音楽の分野でより顕著であった。
フィル・スペクターしかり、ビートルズしかりである。
(クラッシックの分野でも、ストコフスキー富田勲のような例外はある)

2.「複製芸術における、パフォーマンスの変貌」

ダニエル・J・ブーアスティンはその著書「幻影の時代」において、映画のような複製芸術においては、演技者の主体性は失われていると指摘した。
映画の撮影現場では、例えば驚きの表情が必要な場合、演技者の休憩中に当人を実際に驚かした表情を撮影し、その映像を編集して採用するといった事がしばしば行われる。
彼はこのような例を指して「パフォーマンスが変貌してしまっている」と批判した。
先ほどの映画の例の場合、パフォーマンスの主体性は「変貌している」というよりも、演技者から監督へ「移行している」と言った方が、より正確だろう。
映画に限らず、レコードやテレビドラマ、印刷物などの複製芸術においては、その主体性は実際パフォーマンスを行っている者から、レコーディング・プロデューサーや演出家、アート・ディレクターへと移っている。

3.「テクノポップの出現」

音楽の世界では、1980年前後に発生したテクノ・ポップにより、人ではなく、コンピューターが音を奏でるという事態が出現した。
テクノの出現以前でも、シンセサイザー等の電子楽器を使った音楽は存在した。
しかし、それらはすべて指先と楽器との間には紙一重の安全地帯があった。
つまり、幾ら作られた電子音でも、人が奏でているのだという信頼感のようなものがあった。

テクノにはその安全地帯がない。

さらには電気的に合成した音ではなく、デジタル録音(サンプリング)された生楽器の音をコンピューターで演奏する技術も普及してきた。
Macintoshを買うと、標準でGarageBandという音楽作成ソフトが付いてくる。
そこには合成された音だけではなく、実際に演奏された音もループとして付属しており、それらを組み合わせて音楽を作成することが出来る。
「テクノポップの出現」に至り音楽表現におけるパフォーマンスは、変貌どころか崩壊していると言ってもよい事態に至った、と言えるだろう。

「テクノポップの出現」から30年以上が経過した今日、自動演奏の技術はポピュラー音楽の隅々まで浸潤してきている。
「テクノ」や「エレクトロ」というカテゴリーからは無縁の音楽でも、ドラムが自動演奏だったりする。自動演奏でも音は生音からのサンプリングであり、人がドラムセットを叩いているものとの区別は困難である。

最も重要なのはこのような自動演奏技術の発展と低コスト化が、より開放的な音楽制作環境をもたらしたという点である。
つまり作曲能力と編曲能力さえあれば、楽器の演奏能力やバンドの運営能力に依存せずに音楽表現が可能になったという事である。
極端な例を言えば、身体的な障害で演奏が不可能な人達にも、他人の力に頼らずに音楽表現出来る道を開いたと言える。

一方、これまで演奏者の力量に依存していた部分が消滅した分、作曲能力と編曲能力のみで評価されるという厳しい側面もある。
このことは、演奏会では身振りやその場の雰囲気といった音楽以外のパフォーマンスが評価を補完していたのに対し、レコーディングでは音そのものしか評価されないという厳しさと良く似ている。
どこの世界にもタダ飯はないという事である。

4.「ボーカロイドの出現」

初音ミク以前においても、歌声を音楽として組み立てる技術は色々とあった。
ブライアン・イーノの環境音楽にも、歌声のテープループを組み合わせたものがある。
又、前出のGarageBand用のループにも、生歌を音源とした物が数多くある。
しかし、それらは何れもテープ編集の延長線上にある手法である。
また、テクノポップで多用されるボコーダーやオートチューンによる「ロボ声」も、元は人が歌っているものが音源である。
つまりテクノポップにおいても、歌声だけは自動演奏化出来ない最後の「聖域」であったのだ。

ボーカロイドの出現により、この「最後の聖域」が消滅してしまう事になる。
ボーカロイドは、歌詞と音符情報を入力すれば歌う。

この事は音楽表現におけるパフォーマンスの崩壊が、「歌を唄う」という「最後の聖域」まで及んだ事を意味する。

音楽制作環境の解放という観点から見ると、冒頭に述べたとおり「ボーカリストを自分一人でプロデュースする」という夢のような環境が、低コストで提供された事になる。
このことこそが、ボーカロイド出現の本質的な意味であろう。

ここまでボーカロイド出現の意味を、複製芸術の視点から見て来た。
「テクノポップ」や「ボーカロイド」の出現は、このように見てみると非常に革命的な現象と捉える事が出来る。
しかし、そのいずれもがポップミュージックという大衆音楽の中て起こったという事実が、僕にとっては非常にエキサイティングに感じる所である。

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